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仇討ち

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「仇討ち」というのは今でもよく聞く言葉です。

江戸時代は「仇討ち」が公認されていました。
ただドラマのように本懐を遂げるというのは非常に難しいことだったそうです。

敵を討つまで故郷に帰ることも許されなかったそうで、逃げる敵を追って苦難の旅路を続けなければなりませんでした。
逃げ回る方も必死ですし、探し出す手段も聞いて回るぐらいしかないような時代です。その上、武士にとって逃げるというのは悪いことでも卑怯なことでもありませんでした。

狙われている方に対しては、「常に寝床を変え、道を歩くときも相手の待ち伏せがあると感じたら脇道にそれろ」などと指南されています。

これを追う方は返り討ちに遭う危険もあれば、経済的に困窮して立ち行かなくなる場合もあります。
経済的な理由で故郷に戻ることもできず、妻や子どもがあると余計に悲惨です。故郷も離れ一家離散となる武士もあったようです。

 

曽我兄弟の仇討、赤穂浪士、鍵や辻の決闘と日本三大仇討ちとして名高い鍵屋の辻の決闘でが、これは、仇討ちというより、上意討ちとなるかと思います。

殿様の寵童に横恋慕し斬り殺した河合又五郎を殿様は死んでも許しませんでした。
殿様の命でもあり、その仇討ちに行かねばならなかったのは、寵童の兄・数馬で、この数馬は姉の夫・荒木又右衛門に助太刀を要請し、見事本懐を遂げます。

 

仇討ちは、敵を討つほうが苦難が多いような気がしますが、幕府も喧嘩両成敗などのお裁きをしたりしているので、やたらめったらと仇討ちをさせていたわけではないようです。

そもそも仇討ちが許されたのは、目上の人がやられたときです。
鍵屋の辻の決闘のように弟のために仇討ちに出るというのは本来ないことです。
弟や妻、子どもが殺されても仇討ちはできない仕組みになっているのです。

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