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武士道

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山本常朝は、その著書である「葉隠」の中で、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と喝破しました。有名な一句ですが、武士の本質、人間の本質を良く見通しているように思われます。しかしこの名句のような武士がどれほどいたかは分かりません。武士道は確かに一部で支持されましたが、実際は色々な武士が存在したわけで、あまり精神性について考えない武士であれば、日本刀を神聖視するようなことも無かったはずです。実際、武士の日記が現代にも残されており、その中の「石城日記」や「鸚鵡籠中記」には、大道芸に夢中になるあまり、刀を失くしたダメ人間や、刀をぞんざいに扱う武士の存在が記されています。
 武士の矜持というものは、支配階級である自覚からくるものの他に、ある種の美意識があったはずです。その証左として、彼らの言動は美しかったり、振る舞いが格好の良いものであったりしました。西洋であれば職業軍人の威厳に当たるものでしょうか、とにかく武士はその精神性が本義であったと考えられるのです。武士は人前で下手な振る舞いをすることを嫌いました。ですからわざとらしくても、格調高い振る舞いを好みました。そうした美意識は見栄えにも及び、腰に差した2本の刀は、美しく差されているかが重要でした。つまり指し方の角度、柄の頭の位置等が、理想的な状態に留まっているか頻繁に確認されたのです。もちろん行動についても理想がありました。刀を神聖視し過ぎた結果、他人の刀を跨いでしまったら、切り殺されかねない有様でした。実際刀と刀とがぶつかって斬り合いに発展することも珍しくなかったのです。因みに時代劇で見かける「峰打ち」は、歴史的事実とは異なるものです。

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